ヨガコラム

プラーナの話

ある知り合いの方が書いたFBからプラーナの話を拝借しました。
以下コピーです。

「やっぱインド人、半端ねえな。
ヨガの思想を知って、わりと愕然とした。

「毎日マジストレッチ」を続けて4ヶ月目に入ったが、どうしても左のハムストリングスの痛みだけがとれない。
そこでいろいろ調べて行き当たったのが「プラーナ」という概念だった。

プラーナというのは、中国では「気」、日本では「チ」に該当する概念のようで「生命そのもの」を指すそうだ。
で、驚いたのは、古代インド哲学では
「人間や動物はプラーナ(生命)でできている」
という考えがあったようだ。
だから物質的なアプローチはあくまでサブメソッドであって、メインメソッドは「生命にアプローチする」ということらしい。

そもそもヨガでストレッチを主なエクササイズにするのも、この考えに基づくそうだ。
曲がるべきところが曲がらないのは「その部位でプラーナが停滞している」と考える。
筋肉や靭帯が硬いとか、運動不足とか、加齢とか、そういう話ではなく、真っ先に出てくる原因が「プラーナ(生命)の停滞」なのである。
だからその部位をよく曲げるようにすれば、プラーナの停滞が解除され、よく流れると考える。

また「生命は流れる」という考えもあり、よってプラーナが停滞することは「死」を意味する。
身体が硬いということは、身体に「死を貯めている」ということにもなりうる。
だから身体を常に柔軟にし、プラーナ=生命の循環を旺盛にすることがすなわち「生きる」ということになる。

そしてこれは、必ずしも健康の話ではないのであるね。
人間はプラーナでできていて、いずれまたプラーナに還る。つまり人間の本質はプラーナであって、筋肉や骨や内臓ではない。
プラーナが正常に循環していれば、その人は「生命原理と合一している」ということになり、よってこの宇宙そのものとも合一できると考えるのである。

しかし、死んでしまえばプラーナに戻るのなら、生きているうちに改善しなくてもよくね。
死ねば元に戻るんじゃね。
という考えかたもできる。
しかし、これに関しては、ヨガは「No」という。
プラーナの停滞は「サンスカーラ」という記憶として残り、これは死してもなお継続すると考える。
だからこそ、生きているうちに、プラーナの停滞を解除しなければならないのである。

そしておそろしいことで、「死後にプラーナの改善を行う手段はない」とされている。
「あーとーでー」は、許されないのである。
プラーナはサンスカーラを保持したまま輪廻転生するため、次の生でもプラーナの停滞がまた必ず発現する。
これは「カルマ」の一種で、要するに、生きているあいだに停滞を解消しなければ、次の生に停滞を持ち越し、これが蓄積していくと、未来永劫輪廻の牢獄から脱出ができなくなってしまう。

だから「今やれ」と言うのだそうだ。
今生きているうちに、心身の生命停滞をできうる限り解消すれば、次生にカルマを持ち越さず、いずれはブラフマンと同一不二の状態、すなわち解脱に至ることができる。
むろん、生命停滞の解消はストレッチや呼吸法だけではなく、考え方や行動によっても改善できると考える。
だから「ヤマ(禁戒)やニヤマ(勧戒)」という行動規範がある、ということだ。

まあ正直、どこまで正しいのかは、わからん。
「そういう考え方にすぎない」ような気も、しないではない。

でも、わりと納得感があるのは「生物はプラーナでできている」というところではある。
現代科学でも、生命のことはよくわかっていないらしいのだ。
生物を構成する物質を集めて、その物質で正確に構造を真似て作り上げても、生命は生まれないらしい。
なぜ生命は、生命なのか? ナゾはまだ、解き明かされてはいない。

しかし古代インド人は、コペルニクス的転換で、こう考えたのである。
「生命が、物質を作っている」
物質ファーストではなく、生命ファーストに舵を切ったのだった。
たしかにこれは、納得感がある。
物質を集めても生命が生まれないのは、生命の本質が物質にはない、ということを示しているともいえる。
だから、生命を生むことは生命しかできないし、むしろ生命のほうが物質を形成しているといっても「論理的には」間違ってないような気はする。

ちなみに、この生命操作について最も基本的で、最も重要なのが「呼吸」なのだそうである。
プラーナの語源は「吸う息」だからね。
ちゃんとイキをして、身体のこわばりを解除して、人としてまっとうな生き方をすること。
それがようするに「ヨガ」ということなのだそうである。」